流れる星は月に隠れ塔に消える

星は希望。月は幻惑。塔は破綻。

クズと本物

寂しさを感じるのは一人でいることに慣れていないから。

寂しさをわかるのは一人でいない時の感覚を知っているから。

 

 

興味のない人から向けられる好意ほど気持ち悪いものはない。

これには心当たりがあって、小学生くらいの時にそういう噂が自分のところにまで回ってきた。

本人に直接好意を伝えられたわけでないから、本当だったのかわからないけど、当時自分はその噂を聞いて以降その人を避け、嫌われるようにした記憶がある。

相手の事が好きの好きの中には自分を好いてくれるも多分に入っている。

相手がどう思っていようと好きなんて、無償の好きなんて何かがおかしい。

無償より怖いものはない。

自分にはわからない理由は無償に見える。

無償にはどこかで疑いそれを信じる事が出来ない。

最近は人の好意の、重さの、熱の怖さを感じている。

だから自分が好意をおぼえていない他人からの好意を感じた時、一歩引いてしまっている。

好意とまではいかなくても接近を感じたら。

そして一歩詰められたらまた一歩引き、二歩詰められたら二歩引いている。

完全に好意も接近も自分の勘違いかもしれないけど。むしろ勘違いの方が可能性高い気がするけど。

ただ、すべての他人と険悪になりたい、親しくなりたくないという訳ではないので、もうその人には相手がいたり立場が違いすぎてそういう事を考えなくていい他人とは特別に距離を考えてはいない。

 

 

自分の事について好きとか嫌いとかそういう強い感情をおぼえた記憶はない。

ただ、自分を変えたいとか思わないしむしろ変えたくないと思っている部分があるから好きなんだろう。

変化が怖いから変えたくないという部分も多分にあるつもりではあるけれども。

他人からも自分にしか興味がないように見えるとも言われたことがあるし。

自意識の塊なのかなと思う事もある。

だから、本当の自分なんて、ろくでもない。あなたはきっと嫌いになる。自分だって自分が好きじゃない。

 

 

自分の存在価値を他人に依存していたらその人に否定されただけで世界が終わるような気持ちになってしまうだろう。

その人に拒絶されたらどうやって立ち直ればいいのだろう。

人間はどうして一人じゃ生きられないのだろう。

他人から与えられる熱はどんなに熱くても、重くてもそれは有限だ。

その熱が尽きた時もっとずっと冷たい場所で一人になる。

 

 

いつからなのかもうわからないけど、好意も欲も違いがわからない。

所有欲、性欲、独占欲、顕示欲、支配欲、優越欲、承認欲…etc

自分のモノなら所有権がある。

所有権はモノを自由に使用収益処分全面的支配できる権利。

どのように使用しどれくらいのどんな利益を得られどのようにするのか。

ただそのモノには意思があり自律行動する。

もう単純に寝たい。ただそれだけ。

それでもそれはモノ相手だからぶつけられるもの。

相手がモノでないと認識した時点で相手に意識がある事を意識する。

どう思われているのか。自分が異常ではないか。標準から外れていないか。

それを考えた時点でもう恐れと躊躇と羞恥心しか生まない。

自分がそれを認知した時にはそれは自分以外の多くに認知され繋がりがある。

その全てを知る事は不可能。でも関わる全てを知りたい。そんな歪み。

自分で変わらないのなら他の誰の手によって変わる貴方も見たくない。

自分はそれを手に入れたと誇る心。

自分でそれをする自分を嫌う自分がいて、それでもそれをしたくなる自分がいる。

果たしてその時が来た時にどちらの自分が勝るのだろうか。

全て指図をし全て自分の思い通りにする。

それは果たして楽しいのだろうか。面白いのだろうか。豊かなのだろうか。広がりがあるのだろうか。つまらなくないのだろうか。

他の誰かが手に入れていないそれを自分は手に入れる。

もうそれはそれと誰かがなくなったら満たされない儚いもの。そんなものは必要なのだろうか。

自分で自分の価値を確立できなかった醜い成れの果て。

一人で生きていけないし生きていないから獲得したのだろうけれども。

最初から一人だけなら全て所有し相手もいなくて全て無になる。

一方的に幻想を妄想を憧れを憐れみを蔑みをぶつけられたから、甘えてつけこんで踏み躙って自分勝手な願いを押し付けられたから好き。

それは果たして本当に好きと言えるのだろうか。

 

 

好きになったらもうその人じゃないと駄目。

そんな事を考えた事はまだ一度もない。

故に誰かを本気で好きになった事は一度もないのだろう。

今までの全ては欲。

欲望はキリがない。

堰を切ったように止まらなくなる。

欲望は全てを浸食し破壊するかもしれない。

 

 

自分が本当に欲しい言葉は本当に欲しい相手からは絶対にもらえないようにできている。

気持ちなんて手に入らなくて当たり前なら偽りの温もりだけ。

温もりなんて接するだけでも手に入る。接しなくても近づくだけでも。

 

一線とは超えた瞬間わかるものだったり或いは踏み込む前から見えていておそれて留まったり意図的に踏み越えたりするものらしい。

自分はいつもおそれて留まる。そして相手から越えてきたら仕方ないねという予防線を張っている。それを踏み越えてという願いをこめて。

 

他人との秘密は心を救う。

それから生まれる仲間意識、身内意識、そこからの優越感。

 

 

騙されて信じ切っている人に横から出ていって本当のことを言っても嫌われるだけ。

自分は騙している人の他の部分を見て騙されているだろうと感じていた。

でも騙されている人に自分を信じさせる事ができるとは全く感じていなかった。

故に見殺しにした。

その結果、騙されていた人はさらに心が砕けた。

人間不信になったかもしれない。

これは自分のあやまち。

また同じ状況になったとしても同じ事を繰り返すしかないけれども。

 

 

本当の気持ちは鍵をかけて一番深いところに隠して誰にも知られなくていい。

本当の気持ちなんて醜いものは人を遠ざけるだけ。

人に暴かれ人に勝手に憶測され勝手なイメージ付けが為される。

本当の気持ちを隠す為に自分で自分を騙し仮面を作り溶け込む。

そうして自分でも本当の気持ちを忘れわからなくなる滑稽な自分。

 

 

なぜ物語を必要としてきたか。

心を分かち合うため。それ故に人は物語る。

果たして自分には心を分かち合う相手はいるのだろうか。

好意

自分が今までに抱いてきた好意について振り返ってみた。本当にそれが好意なのかは置いておいて。

 

小学校中学年

 

覚えている限りで一番最初に他人に対して好きと思ったのは、小学校2年くらいの頃。

小学校は一学年三クラスで2年毎にクラス替えをする仕組みだった。

その人は転校生で気付いたら別のクラスにいた。

経緯は覚えていないが別のクラスに来た人を好きになったという事は容姿で好きになったんだろう。

特別何かを話したという記憶もない。

 

 

3年生になる時のクラス替えで自分はその想い人と同じクラスになった。

ただ特別学校外で会うとかそういう何かをしたという記憶はない。

同じクラスになったという事で会話したりとか休み時間には一緒に遊んでいたのかもしれない。

家も比較的近かったので同じ方向に家がある何人かで石蹴りをしたりしながら帰った事もあったような気がする。

当時から自分は内気であったし「好き」という気持ちを伝えようとは思っていなかった。

ただ普段からその人を近くで見て遊ぶだけで満足だったのかもしれない。

今振り返ってみればその人は同性と遊んでいる事もあったけれども、若干自分達と遊んでいる事が多く同性集団ではやや浮いている部分があったかなとおもう。

 

小学校高学年

 

5年生になる時のクラス替えでその人とは別のクラスになった。

たぶん残念に思っていたんだとは思う。

ところが、その人と身近で接する事がなくなったせいかまた別の人を好きになった。

その人は1年生の頃からずっと同じクラスの人だった。

一クラス30〜33人くらいだったが2回のクラス替えを経てずっと一緒だったのは自分以外に同性2人とその好きになった異性1人だった。

ずっと一緒だったから好きになったわけではないと思うけれども、好きだなって思った時に何で今までこの人を好きになっていなかったんだろうと思った。

好きだなって思った時には容姿も好きだったし精神的にも好きだった。

この人にも告白とかはしていない。

前回の人と同じようにただ普段話したり休み時間遊んでいただけだったと思う。

 

小学校の休み時間は2時間目休みと昼休みが長く(記憶が正しければ20分)、外で遊ぶように指導され、それ以外の休み時間(5〜10分)は教室でおしゃべりをして終えていたと思う。

 

特別記憶に残っているのはその好きな人を交えた少人数鬼ごっこだった。

普通鬼ごっこは外で遊ぶ時だけするものだったが(教室内で走り回ると怒られる為)、その鬼ごっこは全ての休み時間で実施され、もしかしたら放課後もやっている日があったかもしれない。また普通の鬼ごっこはメンバーが日替わりとなる事から、その時ごとに鬼を決め直していたが、それはメンバーの変化もなく延々と毎日続けられ鬼も日付が変わってリセットされる事もなく続けられた。

自分はその鬼ごっこに最初から入っていたメンバーではない為、どうして始まったかは知らない。

ただ自分はその好きな人たちが鬼ごっこをやっている事に気付いて、楽しそうだなぁと思いつつ自分から混ぜてとも言えなかった。

ある長い休み時間の時、好きな人が鬼になっている時、その鬼ごっこのメンバーの一人と一緒にいた。

そのメンバーが鬼に気付いて逃げ出した時、自分はそこで参加者ではないしと特に走って逃げる事もしなかった。

ところが、そこで鬼は自分にタッチをして逃げ去って行った。

こうして自分もこの少人数鬼ごっこの(記憶が正しければ5人目の)メンバーになった。

自分の混ぜて欲しそうな雰囲気に気付いたのか、なぜなのかもう記憶も薄れているしよくわからない。

とりあえずこの鬼ごっこのメンバーとなった事でしばらくの間校庭の使えない雨の日であっても鬼ごっこをしていた。

この終わりなき鬼ごっこが何故いつ終わったのかもう思い出せない。

自然消滅だったのかもしれないし、卒業という区切りによって終わったのかもしれない。

そして、この好きな人との同じクラス生活も小学校で終わる。

 

 

小学校から中学校へは私立に入るというごく一部を除いて全員同じ学校への進学だった為、卒業&入学という感覚は薄かった気がする。

 中学校は他の二つの小学校からのそれぞれ一部と自分の通っていた小学校全てが学区の範囲となっていて毎年クラス替えがあった。

 

中学1年

 

中学1年ではまた小学校3、4年で好きだった人とも同じクラスになった。

ただ、この時に一番好きだった人はこの人ではない。

この時に好きだった人は小学校5年から同じクラスだった人だった。

この人はもともと自分の家の近くに住んでいたが、小学生高学年の時に引っ越してさらに家が近くなった。

 

自分の通っていた小学校は集団登校という制度をとっていて、集団登校の単位は班と呼ばれ、3年生以上の班長と何人かの班員で構成される。そして班ごとに集合場所、集合時間を決めて全員集合してから集まるというものであった。欠席する時にはそこに親が来て欠席連絡をしていく。

 

そして中学1年の時に好きだった人はこの引っ越しによって同じ登校班になった。

小学生当時、自分は班長でいつも寝坊か何かで遅刻するその人の家の玄関を毎日のように叩いていた。

その時は正直、だらしがないなぁと思っていた。

 

今振り返ると本人には申し訳ないけど何でその人の事を好きになったのかはっきりとわからない。

たぶん、優しくしてくれたとかそんな事だろうと思う。たぶん容姿も好きだったと思う。

 

この人に関してはっきりと覚えているエピソードが一つある。

それは自分がとある人と喧嘩をした時に、自分は喧嘩に負けた。

その時自分は負けたのでよくわからなかったが、どうやらその様子を見たこの人は喧嘩の相手を怒ったらしかった。

最後に仲直りを取り持ってくれたが、その時の喧嘩相手もまるで負けた人のようだった。

 

他はそんなに目立って覚えている事はないが、別に一緒に勉強をしたりしていたわけではなかったが、本人だけに知らされる中間テストや期末テストの点数や順位をこっそり教えあっていたような記憶もある。

 

中学2年

 

またクラス替えによって中学1年の時に好きだった人ともクラスが分かれる。

もう中学では集団登校という制度なぞなかったし接点はほとんどなくなった。

この時にも新しく好きな人ができたような気がするけど、もう何にもエピソードがない。

普段会話して終わり。

 

この時期にあったエピソードは記憶にある限り初めて異性に告白されたという事ぐらい。

その異性について、自分は好きな人というより話しやすい友達という感覚で接していた。

きっかけは完全に忘れたがメールアドレスを交換して、放課後にも相手は携帯で自分はパソコンでやり取りを繰り返していた。

そして、そのやり取りの中で好きな人の話になり、メールで告白された。

自分としてはそういう意識をしてなかったのでとても返事に困った記憶がある。

結果として付き合うこともなくその後、ちょっと気まずい関係となった苦い思い出だ。

 

このあたりから高校受験を意識し始め、勉強に意識が傾いていったことから恋愛についてあんまり考えなくなっていった。

 

高校生

 

高校は同性しかいない高校に進学した。

中学の時には共学の高校に進みたいとは思っていたが、それ以上にいわゆる偏差値で自分に近い高校を受験した結果、こうなった。

もっと偏差値が高かったら共学の高校があったがそれには足りず、もっと偏差値の低い高校を選べば共学の高校も沢山あったが、偏差値がギリギリのところを選んだ。

今のところ後悔はしていないが、共学校に進学していたら別の人生があっただろうなと思う。

中学卒業間近には何で異性いないところを選んでしまったんだろうと思っていた記憶がある。

 

高校での異性との接触は学校では基本的に年1回の文化祭である。

この時には同世代の異性が大挙して押し掛けてくるので、接待して連絡先を交換して付き合うらしい。

文化祭後には授業中にも携帯をいじる奴がたくさん現れみんなやりとりしていた。

自分は積極性がないので連絡先交換以前に文化祭の時に話しかけにいった記憶がない。

 

ただ3年生くらいの時、電車に乗って下校していたら隣駅で乗ってきた初対面の同世代の異性に連絡先を聞かれたことがある。

その人について何にも知らなくて何にも興味が湧かなかったし、戸惑いでいっぱいになったのでその時のやりとりで何にも続かずに終わったが。

 

大学生前半
 

初めてその人の存在を知ったのは大学1年の学生大会の時。

真面目系クズなのと暇だったのもあって出席した。

ちなみにその時自分は何にもサークルにも所属しておらず、そういう人は雰囲気としては参加しないものだった。

学生大会とは生徒総会みたいなものだがその出席者の基本はサークル等の代表などの役員、それと学祭の実行委員でそれ以外で参加する人は稀な存在であった。

 

さて、その学生大会の時に代表として壇上にいたその人の存在を知ったのだったと思う。

正直その後の密度が濃かったので正直、最初ははっきりしない。

この時は相手には認知されることなく、自分だけが認知をした時だった。

相手がSNSをやっている事を知って、アカウント探しをして見つけた。

たぶん当時はこっそり見るだけだった気もするしフォローした気もする。もうどちらだったかおぼえていない。

この時はこれで終わり。

これで明らかな通り性格面なんてなにも知らないんだから容姿に惹かれたんだろう。

 

その後、数ヶ月してから顔をあわせる事になる。

この人はハルヒにブースターをつけた感じと評される程、パワフルにぶっとばす時があった。

ある時から自分がその人が務めている代表という役職の後継者として決まっていた。

当時その人から見た後輩は自分唯一しか居なく、とても可愛がられていたと思う。

他の人たちに後継者として紹介された事もあったが、後々になってその他の人たちに、そういう紹介をされたのは初めてだし気に入られていたんだねと言われた。

 

年度が変わって、自分の後輩も入ってきたがそれと同時にいつのまにか自分にも役職が付き、副代表になっていた。

後輩ができたと言いつつも対外活動をする時には下っ端は出ずに役職付きが出るのが基本なので、益々一緒に行動をする密度が高まった。

他キャンパスへ行き、二人で色々回ったりもした。

その人は顔が広かったので世代交代して自分が代表になりその人が元代表になっても外の活動では連れて行ってもらうことがあった。

パンフレットに二人で載った事もある。

後輩に付き合っているの?と聞かれた事もある。

この人には好きと言われた事もあったしキスもされそうになった事も抱きつかれた事もあった。

好き?と聞かれて本気に聞こえなそうな感じで好きと答えた事もあった。

この頃の好きという気持ちには自分の事を好きと言ってくれるから好きという部分も多分にあったんだろう。

そういう時に本気で好きと言っていれば何かその後違ったのかもしれない。

ただ、臆病な自分は一歩を踏み出せなかったので、何もなくお互いの本当の気持ちをはっきりと具体的に確かめる事もなくそのまま終わった。

 

ただ、先日その人の結婚式に呼ばれて思ったのは、もしこの人と付き合って別れていたらこの場に来れなかっただろうし、付き合わなくてよかったという事が脳裏を巡った。

 

それ以降

 

上述の人とは自分が代表を1年務めて降りたのちにそれに顔を出さなくなった事で次第に疎遠になっていった。

それと同時に気持ちも消えていった。

 

現在において最後の人は今までと違って容姿からではなく精神的、考え方の面から初めて興味を持った。

正直なところ、初対面の時、容姿について表現すれば自分の好みではないと言えた。

その人については現在にも繋がる部分があるので、過去になった時点で改めて文章に起こそうかと思う。

それは遠くない未来に過去になるだろうという見通しを添えて。

進学生活

自分は高校に入った時から落ちこぼれであり、自分の得意教科では上位を取る事もあったけど基本的には底辺を彷徨って、大学もその程度のところにしか入れなかった。

おそらく同じ高校の卒業生で同じ大学に入った人はかなり少ないだろうと思う。卒業した今、大学名を聞かれて答えてもわからない人が大半を占める。

そんな学校名で考えた没落記。

 

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ふたご座流星群

また今年もふたご座流星群の時期が来たので、ふたご座流星群にまつわる想い出を。

 

今までに流れ星を見ようとしてた流星群の日は2回しかない。

 

1回目はおそらくまだ小学生の頃。

その時は父親に起こしてもらって二人で寒い中近所の公園に行って見た気がするけど、見れたか見れなかったか記憶が定かではない。

見えたような気もするし、周りが明る過ぎて見えなかったような気もする。

数年前まではそれが何の流星群の日だったか覚えていたのだが今この記事を書いて思い出せない事に気付いた。

もともと記憶力ないけど最近、記憶力の低下が激しい……

 

 

そして2回目。

これがふたご座流星群

それは2013年12月14日の土曜日。

その日はとあるライトアップイベントのアルバイトがあった。そして、最初は流星群を眺める予定はなかった。

アルバイトが無事終了した22時頃。

自宅最寄駅を通る路線の始発駅にいた。

その日はまともな昼食も食べずに夕食も食べない状態で何か疲れていたのか、なるべく早くどうしても座って帰りたいと思った。しかし発車時間が近くまた自宅よりはるかに遠くまで行く快速列車は既に座席が埋まっていた。

そこでグリーン車をのぞくとまだ座席は空いている。

今日は働いて疲れたし少しくらいは贅沢をしようとホームでグリーン券を購入し着席した。

この頃は常に眠く電車内では降りる駅到着時間に携帯のバイブレーションが作動するように設定して寝る事が通常となっていた。

この日もいつも通りバイブレーションを設定して寝た。

 

ここで小さな事件が起きる。

グリーン車というだけあっていつも利用している普通車より座席のクオリティが高いのである。

これはいつもより眠りが深くなる事を意味する。

ふと誰かに声を掛けられて目が醒める。声を掛けたのは乗務員。掛けた理由はグリーン券購入区間を過ぎているから。

自分が目を覚ましたのは降りるべきである自宅最寄駅を発車するところだった。

車窓を眺めていると一駅目を通過した。快速列車なので快速停車駅でない最寄駅の隣駅を通過するのは当然だ。

二駅目も通過し、そのまま自分の住んでいる市区町村も飛び出した。

三駅目を通過している時に反対方向の列車とすれ違う。これは反対方向の最終列車だ。これによって電車によって戻る手段が消えた。

四駅目でようやく停車したので降車した。とりあえずお金かかっても仕方ないから家に帰って寝ようとタクシー乗り場に行った。

タクシー乗り場にはタクシーは1台もおらず、みんなして電車を寝過ごしたわけでもないはずなのにいないタクシーを待つ長蛇の列が出来ていた。その列を見た瞬間にタクシーで帰ることを諦め、翌日に何か予定があるわけでもないし、流星群の極大日だから歩けばたくさん見えるだろうしと理由をつけて自分を納得させて歩いて帰ることにした。

 

どうせ流れ星を見ながら帰るなら市街地だと見づらいだろうしと太めの川の土手に向かい、土手を歩いて帰ることにした。

流石に土手には街灯も何もなく、人工の光源がかなり少なくなり、少しは見やすくなっていたはず。

この日は月の出ている夜だったけれども、流星群の日と言われるだけあっていくつも流れ星が見えた。本当はどうせなら歳の数だけ見たかったけどそれは叶わず3時間程の間で18個にとどまった。

この頃、精神的に追い込まれている部分があって見つけた18個のうち半分くらいには「今のこの苦しい状況を抜け出させてください。終わらせてください」と願い流れる星に手を伸ばしていた。

しばらくして、星に願ったせいか単に時が経ったせいか、星を掴むことはできなかったが苦しみからは脱した。

 

 

 

そんなのが自分の中でふたご座流星群に関する思い出。

2014年以降毎年、ふたご座流星群の極大日が来るたびに思い出す。

他にもしぶんぎ座流星群ペルセウス座流星群オリオン座流星群しし座流星群こぐま座流星群などなどたくさん流星群極大の時はあるが、ふたご座流星群含めてこの時以降まともに流れ星を眺めたことがない。

今後、この時のようにまた流星群を眺め、流星群に願う事があるのだろうか…

流れる星は月に隠れ塔に消える

なんかどんどん無駄に下書きが積み上がってきてしまうので、簡単に書き切れそうなお題にした。

 

 

このブログのタイトルの由来。

おそらくは変えないと思うので、それについて。

 

そもそもこのユーザ名にした時点で0x3e6’sblogとなるので、何にも拘りがなければ、それでもいいはず。

実際、普段なら面倒くさいからそうするんだけど、ブログを作ろうとか考えている時は何か語りたい事があるからブログを作っているのであって、そういう時は厨二病になっていたりポエム脳になっているので、面倒くさいという気持ちを上回って色々無駄に考える。

だいたいそういう時は激しくネガティブになっている時だけれども。

 

今、ブログの説明部分に入れている

「星は希望。月は幻惑。塔は破綻。」

これは題名の補足。

 

そこら辺のワードを全部入れて検索をすると、出てくるが、言葉の由来はタロットカード。

何でタロットカードかと言われたら特に深い理由はない。

強いて言えば、自分の初めて読んだライトノベルがタロットカードを題材にしていてそれに厨二脳が大きく影響されたから。

 

 

そもそもの題名が出来るまでの思考の順番として、題名を決めようと思った時に、誰かがTwitterでクライアント名芸をしていて、それが確か『流れる星に手をのばす』でそれがいい言葉だなと思っていたのを思い出したのがはじまり。

 

星のタロットカードの正位置での意味は希望、ひらめき、願いが叶う。

 

ここでとある本での希望の解釈。

『希望とは失う事が前提となっている。決して叶わぬ願いだからこそ一縷の希望にすがり、なまじ希望であるから諦めきれず、生殺しの状態で少しずつ心を病んでいき、破滅に至る。』

 

そこで、誰かのクライアント名にとある本での解釈を足すと

「自分よりはるかに離れたところを流れる願いが欲しい。だから希望に手を伸ばすけれども決して届かない。でも諦められない。でも見えているし手が届きそうだ」

 

割とこれで既に完成されていて満足だったのだけれども、このままだとクライアント名そのままなので正位置でのタロットカードの意味からネガティブでその時しっくりきた月のカードと神の家のカードを選び出した。

 

月のタロットカードの正位置での意味は、不安定、幻惑、現実逃避、欺瞞、幻滅、踏んだり蹴ったり、トラウマ。

神の家のタロットカードの正位置での意味は、破綻、破壊、破滅、崩壊、悲劇、悲惨、風前の灯。

 

カードが3枚連番になったのは偶然。

とりあえず(流れる)星、月、神の家と材料が揃ったのであとはそれを組み合わせるだけ。

本来は星は“星”なのだけれども“流れる星”で題名に含めたいと考えたら、どう考えても“神の家”と助詞を含んでいるのと相性が悪く、そのままだと題名というにはさらに長すぎるものとなってしまいそうだったので、“神の家”は別名の“塔”に変更。

 

あとは、流れる星、月、塔をそれぞれの意味を繋げられるようにしてうまく一文で繋げておしまい。

 

最終的な意味合いとしては、

自分よりはるかに離れたところを流れる願いが欲しい。だから希望に手を伸ばすけれども決して届かない。でも諦められない。でも見えているし手が届きそうだと思っていたら、幻惑のように希望が見えたり見えなくなってきた。希望が完全に見つけられなくなったと思ったら、その思い焦がれていたものは完全に潰えて破壊された。

ひたすらネガティブ。

 

ネガティブな話題かそうではないけれど周りの人に言えない(言いたくない)けどどこかに吐き出したい時の為の場として作ったので、まあ合っているかなと。

おそらく今後もそういうことばかり書く気分が明るくはならないブログです。

他人の視線

自分は一人っ子で兄弟姉妹がいるわけでもないし家では一人で風呂に入る生活だった。

学校でも合宿とかを活発に行う部活にいたこともなく、みんなで大浴場に風呂に入るという事がほとんどなかった。

 

自分の肉体の色や部位、肉の付き方等何一つにおいても自信がなく例え同性であっても見られたくないと思っていた。

たまにホテル等に行って三点ユニットの部屋付きの風呂と大浴場の選択肢がある時、状況が許す限り部屋付きの風呂で済ませていた。

 

ただここ数年間、寮に入り大浴場のみという選択肢のない生活となり、毎日身近な人ともお互いの裸を何度も見せ合う生活となった。

色とかについても当然、言及される。それについては今でも嫌だけれども慣れというか諦めが出てきた。

 

そんな他人に裸を見られる事に慣れたある日。

旅行でホテルに泊まった時、そこは三点ユニットの部屋付きの風呂と大浴場の両方があるホテルだった。

そこで自分は三点ユニットだと狭いし身体も洗いづらいからと迷いなく大浴場を選び、大浴場から部屋へ戻ってきてふと気付いた。

過去の自分なら狭さより他人の視線を考えて、三点ユニットを選んでいたのに、今は湯船に浸かるわけではないけれど洗い場の使いやすさで大浴場を選ぶという、選択の変化に。

他人の視線に対する耐性みたいなものが身に付いた故の選択の変化だなと思うけれど、他人の視線を受けない生活がまた続いたら、また他人の視線を避ける選択をするようになるのか。

 

それにしても他人に興味ないのに他人からの自分の裸に対する視線は気になるというのは何なのでしょうね。

他人を求める

前回記事では自分の進学について書こうかという雰囲気出してたけど、時を経たらそんな気分ではなくなったのでまた別の話題。

 

 

この間、異性と二人でドライブに行った。

別にデートには当たらないと思う。

その異性には配偶者がいるし、その配偶者にも話を通してはいる。

その異性について好きか嫌いかと聞かれたら、ご飯を一緒に食べたらするくらいだし別に嫌いではないという回答になる。

普段、異性と接する時、自分の中で嫌われないかな?という思いがあったり、気を遣っていたり、自分が一歩引いている部分があるのだけれど、それがいいかどうかは別にして固定された相手がいる異性だと、その遠慮とかが失われて肩の力が抜け、別にそれで嫌われたり多少の迷惑は掛けてもいいかなとなる。たぶん普段は見栄を張っててそれがなくなるというだけなんでしょうけど。

 

閑話休題、ドライブに行く事になった経緯としては、自分がぽろっと行きたい所を言ったら、その異性も行きたい。

そしてそこは公共交通機関では行けないから車で行こう。ただそれだけ。

 

ただ行く前には考えないように(言わないように)していたけど、ドライブデートって言葉を聞くくらいデートの一種としては定番だよなっていう話。そしてそのデートは二人だけの密室空間が長時間続くからそこで話がないと気まずくなっちゃう中級者向けみたいなのを何かで目にした気がする。

 

自分としては一人でも行っちゃおうと思っていたところに、行きたいと言われたから拒まなかっただけであまり一人で行く事に抵抗感はなかった。

 

自分は話をする事が得意じゃないし、話がない無音空間でもあんまり何も思わないから、車の中で話題を提供する事なく、次々と話題を提供してくれる相手に話をほぼ広げられない浅い相槌を打っていた。

 

他人への興味が薄いからちょっと時が経ってその人の話が何だったかほとんど忘れているけれど、共通の知り合いであるその人の過去の交際者(この交際についても知っていたはずなのに話を出されるまで思い出せなかった)とかフェチズムとかにも話題が及んだ気がする。その時に自分は一人でもこのドライブをしてたというような事を言ってしまったら、邪魔した?と謝られかけてしまったので、本当にどちらでもいいという思いのフラットな感情でそんな事ないよ。と言った気がする。

 

本当はこの時話していた内容でもっと何か書きたいと思わせるものがあったような気がするのだけれども、書く前に忘れてしまったので記憶の底を揺蕩い続けるのだろう。

 

もともと感情が薄い自分はこのドライブ中に特別楽しいとか気分が高揚する事はなかったのだけれども、翌日、一人で出勤準備をしている時、とても気分が重かった。何がとはその時も具体的に表現出来なかったけれども昨日は一人で行かずにその人と行って楽しかったなという気持ちが渦巻いていた。

何をしたというわけでもない。ただ一緒に食事をして話に相槌を打ち続けていただけ。

最近は同性と泊まりで旅行に行ってもその後にこんな思いを抱かない。

 

 

自分から他人を誘うという積極性がないのに異性を求めているのか、ただ非日常の演出の為に他人を求めているだけで同性との旅行のように繰り返し、慣れれば何も思わなくなるのか。